電話口で30分、同じ怒鳴り声を聞き続ける。土下座を要求される。SNSに晒すと脅される——こうした場面への対策が、まもなく「企業の自由」ではなくなります。改正労働施策総合推進法(令和7年法律第63号)により、2026年10月1日から、カスタマーハラスメント対策は労働者を1人でも雇う全事業主の法的義務になります。しかもパワハラ防止法のときと違い、中小企業への猶予措置は一切ありません。この記事では、条例・法律・指針という3つの層で動いてきた法制の現在地、被害の実態データ、措置義務の中身、そしてAIによる一次対応という選択肢を、AIにできないことも含めて正直に整理します。
カスハラ対策の義務化で、2026年10月から何が変わるのか?
答えは、これまで「望ましい取り組み」だったカスハラ対策が、雇用管理上の措置義務——つまり法律上の義務——に変わります。
改正労働施策総合推進法は2025年6月4日に参議院で可決・成立し、2025年6月11日に公布されました。施行日は政令(令和8年政令第17号)で2026年10月1日と確定しています。対象は労働者を1人でも雇う全事業主で、従業員を雇う個人事業主も含まれます。中小企業への適用猶予・経過措置はありません。パワハラ防止法が中小企業に約2年の猶予を設けたのとは対照的で、ここが今回の最大の注意点です。
義務違反への刑事罰はありません。ただし報告徴求命令・助言・指導・勧告、そして企業名公表の対象になります。加えて、対策を怠った結果として従業員が被害を受ければ、安全配慮義務違反として民事責任を問われるリスクもあります。「罰則がないから後回し」は成り立たない構造です。
実は、国の法律に先行して自治体の条例はすでに動いています。全体像を表で整理します。
| 名称 | 主体 | 公布日 | 施行日 | 事業者に課される内容 | 罰則 |
|---|---|---|---|---|---|
| 東京都カスタマー・ハラスメント防止条例 | 東京都 | 2024/10/11(都条例第140号) | 2025/4/1 | 防止に取り組む努力義務・指針遵守 | なし |
| 北海道カスタマーハラスメント防止条例 | 北海道 | 2025年 | 2025/4/1 | 責務・努力義務 | なし |
| 群馬県カスタマーハラスメント防止条例 | 群馬県 | 2025/3/27 | 2025/4/1 | 県・事業者・就業者・顧客の責務 | なし |
| 桑名市カスタマーハラスメント防止条例 | 三重県桑名市 | 2024/12/25 | 2025/4/1 | 責務+市長による確認・認定手続 | 氏名公表あり |
| 改正労働施策総合推進法 | 国 | 2025/6/11(令和7年法律第63号) | 2026/10/1 | 雇用管理上の措置義務。中小企業の猶予なし | 刑事罰なし・行政指導/勧告/公表 |
| カスハラ対策 厚生労働省指針 | 厚生労働省 | 2026/2/26告示(令和8年厚労省告示第51号) | 2026/10/1 | 措置義務の具体化 | — |
東京都・北海道・群馬県の条例は2025年4月1日にすでに施行済みです。罰則のない理念条例とはいえ、「様子見」の期限は実質的にもう過ぎています。
カスハラの被害は、実際どれくらい起きているのか?
答えは、流通・サービス業ではおよそ2人に1人が直近2年以内に被害を経験しています。
UAゼンセン「カスタマーハラスメント対策アンケート調査」(第3回、2024年1〜3月実施、回答210組合・33,133件)では、46.8%が直近2年以内に迷惑行為の被害を受けたと回答しました。業種別ではドラッグストアが56.7%(6,654人中3,770人)と突出し、パチンコホール51.9%、専門店51.2%、家電量販店50.7%と続きます。
企業側の認識も変わってきています。厚生労働省「職場のハラスメントに関する実態調査」(令和5年度、2023年12月〜2024年1月実施)では、過去3年にカスハラの相談があった企業は27.9%で、令和2年度から8.4ポイントの増加。パワハラ・セクハラの相談が減少傾向にあるなかで、カスハラだけが増えています。
なお、労働者個人への調査では過去3年の被害経験は10.8%と令和2年度の15.0%から減少しており、UAゼンセンの被害率も2020年調査の56.7%から約10ポイント下がっています。対策の浸透による改善の兆しはあるものの、「2人に1人」の業種が残る以上、接客業にとっては最優先の労務リスクの一つです。
措置義務では、具体的に何をすればいいのか?
答えは、厚労省指針が示す4本柱——①方針の明確化と周知・啓発、②相談体制の整備、③事後の迅速・適切な対応、④抑止のための措置——に、プライバシー保護と不利益取扱いの禁止を加えた体制づくりです。
指針は2026年2月26日に告示済み(令和8年厚生労働省告示第51号)で、法律と同じ2026年10月1日から適用されます。ゼロから作る必要はありません。厚労省の「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」(2022年2月策定。法改正前の内容である旨が明記されています)やポスター類が、ポータルサイト「あかるい職場応援団」で無料公開されており、雛形として使えます。
東京都内の中小企業には、**カスハラ防止対策推進事業奨励金(定額40万円)**という制度もあります(公益財団法人東京しごと財団。GビズIDプライムの事前取得が必要)。要件はマニュアル整備に加えた実践的な取組で、対象取組の一つに「録音・録画環境の整備」が挙げられています。ここが、次に述べるAI一次対応と制度的につながる部分です。
AI一次対応は、カスハラ対策としてどう機能するのか?
答えは、「暴言の一次受け」「全対応の記録化」「人へのエスカレーション」という3点で、従業員を守る緩衝材として機能します。
第一に一次受け。電話やチャットの最初の応対をAIが受けることで、従業員が突然の罵声を直接浴びる場面そのものを減らせます。第二に記録化。AIの応対は全件が自動的にログとして残るため、悪質事案の証拠、エスカレーションの判断材料、行政・警察対応の資料になります。前述の東京都奨励金が「録音・録画環境の整備」を対象取組に挙げているとおり、記録化は制度の方向性とも一致します。第三にエスカレーション設計。営業時間の案内や予約変更のような定型対応はAIが完結させ、複雑な要望・感情的な案件・悪質な行為は人へ確実に引き継ぐ動線を最初から組み込めます。
Omago(オマゴ)のようなAIエージェント——顧客からの問い合わせに、顧客の言語で24時間自動で応対し、必要なときは人に引き継ぐ仕組み——は、この「一次受け・記録・引き継ぎ」を一つの流れとして支える道具です。夜間の問い合わせを従業員のシフトに頼らず受け止められる点も、負担軽減につながります。ただし、AIはあくまで体制の一部にすぎません。
「AIで門前払い」と受け取られないために、何が必要か?
答えは、正当な要望が必ず人へつながる導線を残すことです。AIは従業員を守る盾であって、顧客を切り捨てる壁にしてはなりません。
まず、AIにできないことを直視する必要があります。社会通念を超えた要求への毅然とした最終判断、例外的な事情への裁量、感情的な配慮を要する謝罪や和解、法的リスクの判断——これらは人間にしかできません。カスハラ対応の核心部分は、最終的に経営者と現場責任者の仕事です。
そのうえで、設計原則は3つあります。(1)正当なクレーム・要望はAIが遮らず、必ず人へつなぐ導線を残す。(2)待ち時間や折り返しの時刻、翌営業日対応の予定を明示する。(3)「人と話したい」という選択肢を常に提示する。この3点を外すと、顧客体験の悪化がかえって新たな不満の火種になりかねません。
時間外の一次応答と引き継ぎの設計は夜間・休日の問い合わせがどこへ消えるのかを扱った記事で、人力の電話代行との使い分けは電話代行サービスとAI応対の正直な比較で詳しく整理しています。また、AIが応対していることを顧客にどう開示すべきかはAI開示義務の記事をご覧ください。
よくある質問
2026年10月の措置義務に罰則はありますか?
刑事罰はありません。ただし義務を怠ると報告徴求命令・助言・指導・勧告・企業名公表の対象になります。さらに従業員が実害を受けた場合には、安全配慮義務違反として民事責任を問われるリスクがあり、「罰則がない=対応不要」ではありません。
従業員数人の小さな店にも義務はありますか?
あります。改正労働施策総合推進法の措置義務は、労働者を1人でも雇う全事業主が対象で、中小企業への猶予措置はありません。パワハラ防止法のときは中小企業に約2年の猶予がありましたが、今回はそれがない点が最大の違いです。
AIを導入すればカスハラ対策の義務を満たせますか?
いいえ。措置義務の中身は方針の明確化・相談体制・事後対応・抑止措置の4本柱であり、AIはそのうち一次受けと記録化を支える道具にすぎません。方針の策定・周知や相談窓口の設置は、AIの有無にかかわらず必要です。
何から始めればよいですか?
まず厚労省「あかるい職場応援団」の無料マニュアルを雛形にカスハラ基本方針を作り、店頭や自社サイトで周知することです。次に相談窓口と記録の運用ルールを決めます。東京都内の中小企業であれば、奨励金(定額40万円)の要件を確認しながら録音・記録環境を整えるのが、費用対効果の高い順序です。
出典:厚生労働省(改正労働施策総合推進法・令和7年法律第63号、カスハラ対策指針・令和8年厚生労働省告示第51号、職場のハラスメントに関する実態調査 令和5年度)、東京都カスタマー・ハラスメント防止条例(2025年4月施行)ほか各自治体条例、UAゼンセン「カスタマーハラスメント対策アンケート調査」第3回(2024年)、公益財団法人東京しごと財団(カスハラ防止対策推進事業奨励金)
